自分にとって『歌』とは因縁深いものである。総じてみるとあまり良い思い出がない。歌うこと自体が嫌いというわけではないのだが、とにかく苦手なのだ。

 

思い返してみれば中学生の音楽の授業。今もそうだが、自分は音程を守って歌うのが苦手である。カラオケくらいならそれもノリと勢いで誤魔化せるのだが、音楽の授業とくに合唱練習とかだとそうもいかない。中学の音楽の先生は熱心な人で、音程が合うまで練習につきあってくれた。どうやら毎回自分の歌は正しい音よりも低かったらしい。だが自分にはその音の違いがよく判らない。いや、なんとなくは判るのだけれど、どうすれば正しい音が出せるのかわからない。結局先生は僕に正しい音を出させることをあきらめていた。将来歌手になるのはやめようと誓った。

 

さらに思い返してみれば高2の冬。これまた音楽の授業で「演奏形態は何でも構わないからグループ毎に作曲しなさい」という課題が出された。

高校の音楽の先生は常々、「私は通知表で3はつけない。頑張っていることが認められれば絶対に4はつける。」と言っていた。自分はそれを信じきっていた。中学校の嫌な思い出もあったが、この先生はなんて素晴らしいんだと。音楽は苦手だが真面目に頑張ろうと決意した。

僕たちのグループはアカペラを披露した。全員で作詞をした。同じグループだった作曲が趣味のまさし君は最高のメロディを提供してくれた。自分はメインボーカルだった。精一杯歌い切った。なんならアンコールにも応えた。発表の日、俺達はどのグループよりも輝いていた。

音楽の成績は「3」だった。人を信じることはやめようと誓った。

 

 

 幼稚園では優しい奴がモテる。小学校では足の速い奴がモテるというが、その後の学生生活においてモテる奴は歌が上手い奴だと思う。バンドのボーカルは皆モテる。バスケ部、サッカー部のモテる奴は大体歌が上手い。やつら、歌の練習なんて大してしていないはずなのに、合唱コンクールとかも手を抜いていたはずなのに、なぜか歌が上手いのだ。さては、もしかしたら自分も音楽の授業に向いていなかっただけで、カラオケは上手いかもしれないと思ったりした。その可能性に賭けて、試しにカラオケを録音したことがある。結果、絶望した。歌を録音するのはやめようと誓った。

 

勘違いしないで欲しいのだが、決して歌うことが嫌いなわけではない。カラオケに行けばそこそこに楽しいし(カラオケは楽しめば勝ちだと割り切った)、車の中で歌を口ずさんだりもする。ただ、苦手なのだ。「歌」というものは我々の生活の中で比較的身近な存在だ。だからこそ、自分の中に歌が下手という意識があるだけで心理的に重圧がかかるのである。それがたまらなく苦手だ。

 

そんな僕も、大学ではなぜか合唱部に所属し、なぜか部長である。大学に入って歌が劇的にうまくなったからとか、そんな夢物語もあるはずがなく、たまたま消去法で自分になったというだけなのだけれど。まあ半強制的に歌わざるを得ない環境に身を置いて2年と少しになるが、最近は歌うことが楽しい。部活の雰囲気に助けられている面が大きい。周りの雰囲気によってこうまで歌への意識が変わるのかと驚愕している。(自分が歌うことへの劣等感はまだまだ健在ではあるのだが)

 

では記事の最後に、例の高校の授業において作った歌の歌詞を書いて締めようと思う。

 

『バレンタインの朝に』

作曲:まさし 作詞:拗らせた男子達

 

朝靴箱をあける時 そこにあるのは

(ここの歌詞忘れた たしか2フレーズぐらいあった気がする)

お前の貰った数は聞いてねえよ

1つももらえない

僕のチョコレート

君だけはくれると思ってた

返しておくれよ僕の純情

僕はいつまでも待ってるよ