くっせえくっせえ。テーマが臭すぎる。ブログはじめて二発目のテーマがこれって、メンヘラもいいところだ。もし自分に彼女ができたとしても、ネットで愛について熱弁しているような奴だとばれたら間違いなく付き合い方を考えられるだろう。1年後、なんなら1週間後にはこの記事が黒歴史になっていることは想像に難くない。まったく、記事の内容を相談した相手が悪かった。寄りにもよってこんなテーマを提示してきた友人を、僕は少し呪う。

 

さて、「愛」である。以前中1の男の子に、「愛と恋の違いは何だろう?」って聞いたら、「実る前の思いが恋で、実った後の思いが愛だよ。」と堂々と胸を張って答えていた。微笑ましく、躊躇いなくそう言い切れる純粋さが少し羨ましかった。

 

ところで、日本において「愛」という言葉の意味は今と昔で微妙に違うようだ。昔の日本において愛という漢字は「愛し(かなし)」と用いられていた。「しみじみと心がひかれる、かわいい、守りたい気持ちを思うさま」というような意味で用いられていたらしい。ちなみに自分は「愛し」という言葉をradwimpsの曲の中で知った。初期のradの名曲だ。知らない人は是非聞いてみることをお勧めする。

近代になって、西洋的(キリスト教的)なloveという意味合いが「愛」という言葉に導入されたようだ。それゆえに現代において「愛」という言葉には宗教的、他文化圏の意味も含まれるようになった。きっと平安時代の人が「愛しい」と言うのと、現代の人が「愛しい」と言うのでは大きくニュアンスがずれるだろう。当然のことではあるが、少しロマンを感じる。

 

ちなみに広辞苑によれば、1…親兄弟をいつくしみあう心、ひろく人間や生物への思いやり 2…恋愛 3…大切にすること、可愛がること が「愛」の意味らしい。

ともすれば、萌えと愛は何が違うのだろう。恋と愛は何が違うのだろう。依存と愛は何が違うのだろう。結局「愛」とは何なのだろう。辞書を引いてもよくわからない。もちろん漫然とした意味は理解できる。ただ、明確な言語化が本当に難しい。言語化しようとすることがそもそも野暮なのかもしれないが。

 

自分の人生を思い返してみる。過去の男女交際の中で、自分が「愛している」と言うのにはずっと抵抗があった。気恥ずかしいとかそんな理由ではなく、その言葉を口にした瞬間に一見暖かそうな雰囲気の裏で、得体のしれない恐怖に包まれるきがした。「愛している」というだけで、相手の人生を支える義務が発生するかのような。そこにとてつもない責任が発生するような。

けれども逆に、幸せなことに自分は「愛している」と言ってもらえることがままあった。幼いころに親から言われたことや、昔の彼女から言ってっもらえたこともある。そして「愛している」と言われた時、安心感に包まれていたとおもう。自分が自分というだけで、相手に受け入れられたような気がした。自分から言うことに抵抗はあるくせに、都合のいい男である。

ともすれば「愛」という言葉は、その対象に対して安心や、その他ポジティブな感情を与えることのできる魔法の言葉といえる。この言葉は、主体的な意味よりも、周りに与える意味のほうが大きいのかもしれない。自分の愛を述べることに対する恐怖感は、絶大な他者への影響の反動と捉えることもできる。

 

外国人が日本語を学ぶ上で、きっと真っ先に覚えるだろう言葉がこんなに難しいなんて、とんだ皮肉である。こんなに難しい言葉を使いこなせる日は来るのだろうか。今の自分に良い男の条件は何かと聞かれれば、愛という言葉を適切に使える人だと答えるだろう。おら、書ききったぞ、之で満足か。

 

ちなみに最初に述べた中1の男の子、最近彼女に振られたらしい。彼にとっての愛の定義は今後どのような変遷をたどるのか、気になるところだ。