おっぱい

おっぱい。

 

正直に言う。このブログを始めて、一番書きたかったテーマが『おっぱい』だ。そして自分を知る人であれば確実に、「こいつ、おっぱいについて記事書くな。」と予想したと思われる。そう。愚拙を代表する言葉といえば『おっぱい』なのだ。21年間生きてきて、人並みに辛いことも、大変なことも、悲しいことも経験した。趣味嗜好、そして思考も21年間の中で様々な変遷を遂げていった。けれどおっぱいは、おっぱいだけは。21年間僕はおっぱいを愛し続けたし、おっぱいにも僕は愛され続けていたと思う。

 

男子として生きるものなら、「巨乳貧乳論争」に巻き込まれた経験が一度ならずあるだろう。男子諸君の至上命題であり、数多の男子間戦争の火種になってきた。沢山の死傷者も生み出した。そんな不毛な争いを、この記事をもち僕が勇気をもって終わらせようと思う。

からしてみれば、女性の乳房の大きさに優劣をつけるのが最早ナンセンスなのだ。そもそも男子諸君は、そこに『おっぱい』があるというだけで、『おっぱい』という概念そのものに感謝しなければならないのである。だって野郎に『おっぱい』はないんだから。(太ってる人にはおっぱいあるじゃん!とかいうな低俗な議論はしたくない)自分が持っていないものにケチをつけるなんて、やっかみもいいところである。金子みすゞが「みんな違ってみんないい」と言っていた。その通りだ。全ての女性に、全ての乳房に、十人十色の魅力が詰まっている。野郎諸君に許されることはただ一つ。おっぱいがこの世に存在することへの『感謝』のみなのである。

しかし人間は過ちを犯す。はずかしながら愚拙も、胸が小さい女の子に対して「貧乳」といじったことがある。結果、彼女は静かに泣いてしまった。反省した。本当に恥ずかしいはなしだ。いうなれば女性に「貧乳」といじることは、男性に対して「租チン」といじるのと同義なのだ。過去に一度でも、女性に「貧乳」といじったことのある男性は、胸に手を当てて想像してほしい。自分が女性から「租チン」といじられている光景を。僕なら泣く。号泣する。嗚咽する。そして男子諸君。僕たちは過去を変えることはできないが未来は変えられる。貧乳といわれて泣く女の子をもう作り出したくない。やめよう。貧乳いじり。

 

ところで『おっぱい』という日本語は本当によくできていると思う。その4文字の響きに、乳房の柔らかさ、張り、神秘など全ての魅力が詰まっている。英語の”bust”という言葉には存在しない夢が詰まっている。そしてきっと赤ちゃんが「ママ」・「パパ」の次に覚える言葉も『おっぱい』であろう。赤ちゃんにとって大切な栄養源が、最も発音しやすい母音から始まっているという点において機能性が素晴らしい。赤ゃんからじじいまで、『おっぱい』という言葉は誰でもわかる。さて『おっぱい』の語源は諸説あるようだが、一番有力なのは江戸時代に「ををうまい」が訛ったという説だそう。他にも形が「杯」に似ており、それに丁寧語の「お」を付けたという説もあるそうだ。なるほど、勉強になる。何はともあれ、『おっぱい』に『おっぱい』と名付けた先祖には頭が下がる。こんなに機能性に優れ、深遠な意味を持つ言葉を僕は他に知らない。

 

僕は極限の疲労状態に置かれたとき、語彙力が格段に下がる。言葉を考え、文章を作り、言葉に出すのが途端に億劫になるのだ。そんな時、僕は『おっぱい』しか言えなくなる。勘違いしないで欲しいのだが、そこに邪な意味は何もない。というか、その言葉に意味はない。ただの記号の羅列を口に出しているに過ぎない。気が付いたら『おっぱい』と呟いているのだ。けれど『おっぱい』と口に出すだけで、不思議と元気が湧き上がってくる。『おっぱい』はいつだって僕を助けてくれる。みんなも疲れたときは口に出すと良い。怖がることはない。『おっぱい』と、叫ぼう。

 

最早自分にとって『おっぱい』とは切っても切れない関係にある。これからも無限の感謝を胸に秘めて、おごることなく、つつましく生きていこう。願わくば、この感謝の念を君も持ってくれると嬉しい。

 

 

おっぱい。